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学校に行かなくなった理由と過程を教えてください:不登校でも居場所はあるよ – アンケート集

不登校になったお子さんは、どのように居場所を見つけていったのでしょうか?また、保護者の方はどのようにお子さんと関わっていたのでしょうか?

今回は「今まさに子どもが学校行き渋りだ」「今まさに不登校になった」というご家庭の方に向けて、他のご家庭はどうやって情報を見つけ、居場所を見つけ、どのようにお子さんが変化していったかをインタビューいたしました。

今回は不登校のお子さんがいらっしゃるご家庭の保護者に「学校に行かなくなった(もしくは、行く頻度が減った)理由と過程を詳しく教えてください。」とお聞きした際の回答をまとめます。

目次

学校に行かなくなった(もしくは、行く頻度が減った)理由と過程を詳しく教えてください。

Branch保護者の方からの回答

  • ・小1のゴールデンウィーク明けから行き渋るようになり、一年生の間は行けるときだけ母子登校。二学期から通級、三学期には支援級に転籍などしましたが二年生に上がっても行けるのは週に一度1時間ほど。三年生にあがって転居に伴う転校をしてからは完全に行かなくなりました。行きたくなくなった理由は人数が多すぎる、自分のペースでできない、他の子が何を言ってくるかわからないのが怖い、などの理由で学校という場所が合わなかったから、のようです(上の子)。
    ・小2の夏休み前から行きたがらない日が増え、夏休みが終わってからは完全に行かなくなりました。行かない理由は、理不尽なルールが多い、休み時間に何をすればいいのかわからずつまらない、など学校が合わなかったからのようです。
  • 学校は人が多すぎる、臭い、汚い。机の落書き、イスが汚れてる(先生が消毒スプレーしていた)から座りたくない。菌(コロナ)が学校の入口にあるから校舎に入れない。マスクが苦しい。給食で食べれるものがない。休み時間(入学当時は2020年、コロナ分散登校直後は校庭に出れず、教室に座って自由帳にお絵描きのみだったらしく、絵が苦手な息子にとっては苦痛な時間)にすることがない、、、と当時本人は話していました。校舎に入りたがらない息子、放課後に担任と外で会うことが1度ありました(小1・9月)。線路沿いで一緒に特急列車を見る約束でしたが、なかなか時刻通りにお目当ての特急が通過せず、職員会議の時間だからと先生が帰ってしまい、それ以降、先生との面会は一切拒否。先生への信頼感がゼロとなったのだと思います。先生と母親が電話していると知るだけでも荒れていました。学校というワードがNG。学校関係の書類(宿題プリント等)も見るだけで暴れていました。いつか連れ戻されると不安だったのかもしれません。結局、登校したのは、小1の6月まで(6日程度)。それ以降は完全不登校です。
  • 兄:小学校中学年頃より、月に1回ほど頭痛で休むようになる。
    6年になり徐々に頭痛の回数、休む頻度が増える(月に数回)
    担任からは連絡はほとんどなし。理不尽な怒り方をされたり、一度は担任に会いたくないので休みたいという日もあった。子供からは話しかけられない雰囲気、クラスの雰囲気も嫌だったよう。いじめがあったわけではない。
    卒業前の1月頃から休みがちになり、給食のみの登校、保健室登校などが増えた。卒業式には出れた。中学校は担任も生徒支援専任も理解が深く、本人とよく話してくれて入学後、一ヶ月は登校したがゴールデンウィーク明けより、体が動かなくなり行けなくなった。

    弟:兄が卒業前に行き渋るようになって少ししてから、「お兄ちゃんはずるい」と泣き出し、朝起きれず腹痛を訴えるようになった。はじめは「どうして行けないんだろう、このまま行けなくなったらどうしよう」と言っていたが、元気がなくなり家にこもるようになった。
  • 直接のきっかけはイジメですが、元々のASDの特性があり、友人関係がうまく作れなかったことが原因と思います。
  • クラスの子から絡まれたり馬鹿にされるようなことが続いており、本人が担任を巻き込んで抗議したところで夏休みに入り、夏休み明けも行きたくないと登校せず、その後修学旅行や部分登校をしていましたが、クラスメイトが何か自分のことを話しているのを聞いてショックを受けたらしくて、また登校しなくなりました。
  • 次男(小5)
    小1の夏休み明け、初日に「行きたくない」と泣きながら訴えました。GW明け頃からチック(口元を触り過ぎて真っ赤になる、服の襟元を吸ってベタベタにするなど)があり、「何かあるな」と思って見ていました。
    一年生のうちは、「今日は行くー」という日もあり、行ったり行かなかったりで、なんとなく過ごせていました。2年生になると、「行きたくない日」の方が増えました。その状況に私が辛くなり、パートを始めました。2年生の冬休みまでは、私の仕事の時間(週2、3日)は嫌がる次男を学校へ送ってから、仕事へ向かいました。
    そして、冬休み最終日に、本人が高熱を出しました。それを見て、休ませることを拒んでいた夫も、「さすがに体調に異変が起きたら仕方ない」とのことで、2年生の3学期からは「休ませる」と学校に伝えました。それからは、週一の夕方登校をしながらの、完全不登校です。
    行かなくなった理由としては、当初本人が言っていたのは「トイレの便座が冷たい、牛乳を飲むとお腹が降る、その間にお友達が遊びに行ってしまって悲しい、授業中座っていられない」と言っていたのに加え、漢字の宿題を毎日泣きながらやっていました(先生と同じように上手に書けないと言いながら)。
    今、10歳になった彼が言うには、「みんなで同じことを同じ時間にするのがよくわからない、やりたくない事はしたくない、教えてもらうことが嫌だ(ネタバレを喰らっているようだ、自分で考えて知りたい)。ヒントやアドバイスはいいけれど、正解を教えて欲しくない。自分でコツコツやってみて、出来た方が嬉しい。さらにそれを実践でいかせたときの喜びが大好き。それは、ネタバレ喰らってたら、味わえないものだ。と、言語化できるようになってきました。

    長男(中1)
    誰も知り合いのいない状態で、小学校に入学しました。不安になったら、図書館に行って、大好きな「おさるのジョージ」を読んで、家を思い出して安心を得ていたと教えてくれました。
    小5の冬休み明けまでは、休みながらもなんとか登校していました。
    小5の3学期、突然、いつものように3日くらい休んでも、登校する元気がありませんでした。
    担任の先生に、連絡すると「イジられたりしている所を、最近見るので、それも原因かもしれない」と言われました。本人に聞くと、確かにそれも嫌だとは言いました。結果、そこは、先生を介して解決しました。
    それでも、その後から完全不登校になりました。元々、次男が家にいるので、長男もそれでいいと思っていました。元気を取り戻すのに、大事な時間かなと思ったので。(夫はかなりナーバスになり、受け入れられないようで試行錯誤しましたが、最終的には諦めました)
    少し経つと、本人から私に話してきました。「授業中に、2人1組になって、と突然言われると、どうしていいかわからなかった。だから、モタモタしていると、いつも先生と組むことになっていて、それが嫌だった」と。
    また、2年生の時に担任の先生から言われたのが、「字がとても乱雑。丁寧に書く練習をしていった方がいい。あと、口頭でお願いをしても、やっていないことが度々ある」と、教えてもらていました。その辺りは、特性によるものかなと思っています。
  • 小学校に入学して2週間目から突然行きたくないと言い出し、そこから1年間毎日母子登校。引きずっていく日もありました。登校できればいい方で、たまにお休みすることもありました。
    2年生になる前の春休みにコロナで一斉休校。そこで気持ちが少し楽になったのか2年生進級後は1年生の頃より少し行き渋りが減り、母子登校もたまに行くくらいで、月曜日や長期休み明けにたまにお休みするくらいでした。
    3年生はほとんど一人で登校し、1学期は少し登校渋りがあったものの、2学期はほとんどお休みをしませんでした。
    3年生の3学期にコロナが猛威を振るっていたことと、兄の中学受験が重なり、それまで登校していた日は毎日通っていた学童を長期でお休みするようになりました。また、兄のスケジュールの関係で2月も数日学校もお休みをしました。それがきっかけかはわかりませんが、3月になっても学童に復帰したがらず、3年生いっぱいで学童は終了なのでそのまま学童は終了。学校も3月に入ってから家から出たはずなのに兄弟でサボって帰宅していた日があり、かなり私が激しく怒ったこともありました。それでも一応登校している日の方が多かったです。
    4年生進級後、2日目に朝家を出たはずなのに登校していないと学校から連絡があり、探すと自宅マンションの敷地内でうずくまっているところを発見。その日は結局お休みしました。それ以降、それまでは休んだ日は「明日は行くからね」と言うことが多かったのですが何となくこれまでと様子が違うことが気になりました。案の定、それ以降毎日行き渋りがひどくなり、2週目は朝家を出ても校門から入れない状態が続きました。それでも2時間くらいかけて校舎に入り、廊下で2時間くらい躊躇して結局帰宅するという日が続き、その後本格的に登校することをを諦めました。以降現在に至ります。
  • 中学に入り部活や委員会を張り切りすぎ、勉強やテストや行事と重なってきた時に体調を壊したことがきっかけで毎日行けなくなりました。
  • ○小1の4〜7月の行かなくなった過程です。理由は今でもはっきりしていません。
    ○小学校入学直後から登校する足取は重く、お腹や頭が痛いと言っていましたが、上の子の時もそうだったので、「みんな不安だよ、そのうち慣れるから大丈夫」という声かけで行かせていました。その時は、集団に慣れるのに時間がかかる子だし、暫くは仕方ないと思っていました。
    ○しかし一向に慣れる気配はなく、お腹や頭が痛いから休みたいと毎朝訴えるようになりました。また、学校はどうしたら辞められるのかと真剣に尋ねてきました。
    ○その様子を夫にシェアしていたところ、母親では甘えるからダメだ、と夫が毎朝送り出す役割に交代します。最初は上手くいったものの、徐々に1人では行けなくなり、結局自転車で学校近くまで連れて行き、泣きそうな顔の子どもを置いてくる毎日になりました。5月の運動会後に大きく崩れた気がします。
    ○なんとか登校しても、身体のどこがが痛むと毎日のように保健室に行き、実際に転んだりして怪我をする回数も増えました。また、忘れ物失くし物もとても多くて、本人は真面目に先生の話を聞いているのに大切なことが頭に入っていませんでした。宿題も当日の朝に急いで手をつける状態でした。
    ○本人からは、隣の先生が怒鳴って怖い、友達に押された、班の子がルールを守らない、等の訴えがありましたが、さらに聞き取ろうとしても答えてもらえず、親子の会話が上手くできない(彼のことが分からない)状態になっていきました。
    ○保育園時代からは人が変わったようにキツい顔つきになり、すぐに怒り出し、自分はクズだ死んだ方がいいと荒れるようになりました。母親に出せない分、父親への暴力が当たり前になりました。「イライラするからパパを殴ってくる」と私に宣言して、殴りにいったこともありました。
    ○このままでは、親子関係という1番大事な部分が崩れてしまう、そして本人が壊れてしまうと思い、夫に適当に休ませてあげようと提案しますが、最初は受入れられませんでした。
    ○毎朝の送り役を続けていた夫から、7月初旬に「このまま学校に無理に行かせることが正解だとは思えない。自分はもう、彼のあんなに辛そうな姿を見て登校を無理強いできない。充電切れで動けなくなる前に、本人に会う場所を探してあげるのはどうだろう」と話があり、賛成しました。
    ○そこで、お腹が痛いと訴えるのを受け入れて休ませたのが、1学期の終業式の日でした。その日は放課後に担任とスクールカウンセラーに会いに行きました。
  • 小3の後半にクラスメイトとオンラインゲームのトラフブルがあり、これを機にわが子は孤立して不登校になりました。
    担任は双方から話は聞いたものの適切な介入などはなく(どうすることが適切なのかということは色々な考え方があるとは思いますが)、どちらか又は喧嘩両成敗的にお互いに謝って終わりにするでもなく、双方揃ってゲームのマナーをよく確認させて終結を図るでもなく、ほぼ放置でした。
  • 保育園の時から行き渋りがあり時間を少しずらして登園したり、療育と併用しながら無理ないようにしたりはしたものの、やはり根本の集団の場所や騒音は本人にとって辛い場所でしたので、本人に合わないなら無理に合わせず本人らしく生きていくことを選び今にいたります。
  • 幼稚園の頃から休み明けなどは行き渋りがあった。小学生になってからもあったが、いつもニコニコ帰ってくるのであまり気にしていなかった。
    宿題はいつも嫌がっていた。
    一年生の冬頃から家で荒れるようになり、休ませることにした。
  • 学校に行けなくなったのは中学生になり楽しかった日々が段々とプレッシャーになり
    行事に参加の圧がすごかったのと学校に行けばできてしまうということであれもこれもとやる課題が増えてしまったりコントロールが利かなくなり体調不良が続き心も体もボロボロに。
  • 理由は正確には分かりませんが、一斉指示に従って、みんなと同じことを同じようにこなす、ということが難しかったのだと思っています。小1までは何とかがんばっていましたが、小2の夏休み明けから登校しぶりが本格的になり、登校に付き添ったり、行ける授業だけ行ったりという時期を経て、秋には完全不登校になりました。
  • うちは、3歳前からASDの診断を受け、集団に入るためスモールステップで療育教室、保育所へ通ってました。小さい時から行きしぶりはずっとありましたが、集団の場では過剰適応してしまうタイプで、やれば出来る子とされてました。

    小学校でも支援級在籍しましたが、特に問題ないと言われ、通常級でずっと過ごしていました。
    でも家では2学期後半から、保育所の時以上の行きしぶり、癇癪、暴言、不安、体調不良と、明らかにおかしくなっており、ケース会議を開き、支援級で休憩、早退や休みを増やす方向となりました。

    休みを増やせば増やすほど、どんどん落ち着き、小さい頃からあった癇癪もピタッととまり、生活の中で困るこだわりも無くなりました。
    今は、2週間に1度くらい、休み時間に学校に行くくらいです。

    学校に行きたくない理由は、主に感覚過敏の部分が大きいですが、保育所の頃から「〇〇が嫌いなのは僕だけ?」や「〇〇が好きなのは僕だけ?」「みんなは何であんなに嫌な事を楽しそうにしているんだろう?」と周囲の子と興味、好きな事が違うことを悩んでいました。

    短時間登校してる時、「お楽しみ会って名前なのに、全く楽しくなかったんだけど!?」と別室待機してる私に報告して、そばにいた支援級の先生に、「みんな楽しくなくても我慢してんの!!」と言われ、「何で!?」と言ってました。

    そういうことがたくさんあり、嫌なんだと思います。
  • クラスのお友達との揉め事です。先生から学校で過ごす上で「してはいけないこと」についてお話があったそうです。それを守れていない子に片っ端から注意したようで、友人関係が悪化しました。
  • 宿泊研修でクラスの友達と馴染めないことが浮き彫りになり、疲れてしまったことがきっかけでした。興味のない話題に付き合うことができず、そんな自分を周りはどう思っているのか、気になってしまったようでした。宿泊研修から帰った次の日以降、学校には全く行かなくなりました。
  • 新型コロナウィルスの流行にともない、一斉休校になったことが発端です。思い返せば、元々学校でいわゆる良い子を演じていて、家では発散して甘えていたところがありました。本人にはプレッシャーなどはかけておらず、のびのび育ってくれればよいと思って接していましたが、兄と父のやり取りなどからちゃんとしなくちゃと自分で思ってしまったように感じます。一斉休校で行かなくても大丈夫なのかも…ときづいたのかもしれません。
    徐々に行かなくなり、時々イベントなどは参加しましたものの、翌日には疲れて行けないということが続き、完全に不登校となりました。
  • 友達とのトラブル、音がうるさく感じた、先生からトドメで「あなたは我慢してないから我慢して方がいい」と言われて不登校に。後から、発達障害グレーゾーンのASD経過と分かる。
  • 行きたくないけれど親に無理やり連れて行かれたこと、帰りたいと言ったら学校の先生に押さえられて痛かったことなどがトラウマとなり学校への恐怖感が出て1人で行くことが難しくなりました。特性から何か困ったことが起きた時にどうしたら良いのかわからずパニックになる不安がとても強く、本人より登校はしたいけれど一人では難しい、親の付き添いがあれば登校するという申し出があったので付き添いをしています。朝から行く日もあれば、帰りの会だけ参加という、行ける時間をその日の気持ちや体調次第で考えて行っていました。小5の5月にクラスメイトにあなたがいるとむかつくと言われたことがきっかけで全く行かなくなりました。
  • 小学三、四年の担任が厳しく、怠けていると判断して連日の居残りや満点取るまでのやり直しをさせたり、事あるごとに何かの犯人と疑ったり、、、学童でもトイレを汚した犯人と決めつけて号泣したことがありました。この頃、抜毛が始まりました。都のSCは、『ゆっくりタイプ』と私に伝えてくれましたが、その後、カウンセリング対応した、区のSCは、息子が担任に言わないで!とお願いしても、延々と説得し、話を聞いた担任も根掘り葉掘り。

    この時に、不適応と判断していれば、ASD傾向も早くわかっていたかもしれませんが、その後、五、六年の担任に救われて卒業しました。

    小学校は少人数で穏やかな環境でしたが、中学は生徒数3倍。やんちゃな子も増え、先生たちの一部は高圧的。言葉を間に受けるためからかわれるのが苦手だったようですが、良い意味で揶揄われる(可愛がられる)機会が増えました。基本、優しいので、小学校よりも中学で、周りに友達が集まってくる、そんな存在だったそうです。それを嬉しく思っていたら、息子は、ひとりひとりに気を使うことで疲弊し、抜毛が悪化しました。

    中学1年の夏休み前から、『○○ウザい』と1人の生徒のことを毎日愚痴るようになりました。その子は、小学校から一緒で、ADHD気質ながら空気読まずに登校できている子でした。鼻くそをほじり食べたりする手で、◯◯のモノや◯◯に触ってくるのが、ずーっと嫌で。小学校のときから愚痴っていましたが
    『気にするなよ』と、受け止めることなく、対応してしまっていました、親も先生も。

    中学で、クラスは違うのに、ちょっかい出されることに嫌悪感が積もり、『会うと硬直する』レベルに。登校渋りを経て鬱診断。この診断した医者に、必要以上のセロトニン薬を処方されて、状態悪化(カウンセリングもアセスメントもなしに、ADHDと言い放ち、ストラテラも処方。荒れ狂ったため断薬。その後、インチュニブ処方された時点で転院)。その後転院して、ウィスク取り、ASD傾向の診断となり、今は服薬なしです。勉強に気は向きませんが、学校や勉強が嫌なだけで、キャンプとかゲームは楽しめる状態です。
    下校中の1年生くらいの知らない子(1人)と門ですれ違った際、恐らく息子が持っていた角材の手作り剣を見て、「弱そう」とボソッと言った言葉が聞こえ、その場では何も反応しなかったが、後日突然思い出して怒り出し、そこから学校行くなら戦うと言い始めて行けなくなった。
  • まだ小1の頃です。学校に行かないという選択があることを知らず、受け入れることもできなくて、無理やり登校させていましたが、親子ともに泣きながらでした。
    最後はお父さんの力で無理やり連れていきましたが、子供はどんどん暴力的になり、朝の壮絶なやりとりに、もう無理だと判断して、学校には行かなくてもいいよ、と1言言ったその日から、全く行かなくなりました。
    4年生になった今は、放課後に週一回だけ、通級指導教室に通えるようになっています。
  • 入学してすぐから、学校へ行きたくないそぶりを見せるようになりました。まだ幼く、はっきりとした理由は聞けませんでしたが、小学校が「自分の居るべき場所じゃない」と感じている様子は明白でした。幼稚園まで過剰適応気味に過ごしてきたことを心配していたのもあり、親の方から行かなくていいと働きかけてそのまま完全不登校になりました。
  • 小学校入学後3日程で不登校になり、当時は理由が分かりませんでした。
    今から考えると、入学前から集団での活動に苦手感や周りと比べて自分ができていない、と感じ傷ついていたことがあったのかもしれません。当時はその事に気が付きませんでした。
    そこに小学校入学という環境の変化が加わり、不安感が大きくなって、すぐに不登校になってしまったのでは…と考えています。
  • 息子:入学して3ヶ月後に数回休み、4ヶ月目で完全不登校。理由は遊ぶ時間が少ない、制服を着ること、先生が怒る、友達がうるさい、楽しくない、、など複数あり。
    娘:小3に行きしぶりあり、小6になって息子が不登校になってから数回休み4ヶ月後に不登校。理由は人間関係、先生の指導や学校に対しての違和感、人の言葉を気にしすぎる、など複数あり。
  • 小1はほぼ問題なく通えていたのですが、小2で担任が変わったのが始まりでした。
    例えば宿題の漢字の書き取り。書けていれば毎日花丸だったのが、漢字だけでなくひらがなまで赤で直され、直されたところは全て消して書き直さないと休み時間遊びに行けなくなりました。
    上履きは新学期になってから数週間持ち帰りませんでした。聞けば「僕の上履き袋だけないんだよ」と。1年の時は金曜日に先生が配ってくれていたそうで、新担任にはそれが引き継がれなかったようです。
    他にもクラスのルールの変化についていけなかったようです。
    決定的だったのは、ひっ算の引き算。やり方を子どもたちに考えさせてから、正しいやり方を教えるという内容だったそうですが、息子は「自分はバカだから間違えてしまった」と授業中に家に帰ろうとしたそうです。
    次の日から行き渋るようになりました。
    その後好きな授業や行事だけ行っていましたが、担任の理解が無く、やり取りする私も疲れてしまい、登校しなくなりました。
    小学校入学時から週一回通級に通っていましたが、そちらは卒業まで通うことができました。
  • 小2の2学期始業式の翌日から2ヶ月ほど週休3日で登校。11月に入り同級生からの嫌がらせがキッカケで休みが続くように。年度末までたまに教室や放課後登校。2月からリモートでクラスと繋がっていましたが小3から完全不登校。入学当時から学校は苦手な場所で先生方の配慮、本人の頑張りでやっていたが2年生になり他クラスで学童が一緒の子からの嫌がらせで引き金が引かれた感じです。
  • ASD、ADHD、DCDがある息子は、支援級で入学しましたが、『様子を見ましょう』と言われ通常級で過ごしていました。登校は母も付き添って登校班で行っていました。支援級の先生(知識は少ない方)からは、『ちゃんと座っていますよ!』と、何回か連絡がきました。母も新たに求職活動を開始。妹も保育園へ。息子の放課後デイサービスも利用開始しました。
    4月下旬より教室に入るのを拒む為、そこで支援級で過ごす様になりましたが、母も一緒に教室に入ってほしいと言うので、娘を保育園へ預ける時間まで付き添っていました。初めは母を追いかけたり、1時間程泣いていたようですが、少しづつ慣れてきて泣く事は減りました。ですが、放デイの送迎利用も安定せず、母が送り迎えをすることも多かったです。
    風呂を入るのを嫌がったり、癇癪が徐々に増えていきました。

    徐々に、母、娘、兄の順番で体調を崩し、学校を休む事が増えました。母が体調不良の時に学校を休ませなければいけないのですが、息子は、『学校を休ませてくれてありがとう!』と言っていて、でも、学校や放デイについて、『楽しい?』と聞くと『楽しいよ。』と言います。

    支援級は、通常級で過ごす時間を時間割の中で選び、時間割に丸をつけます。つけた授業は通常級に行くのですが、当日に嫌になったら行かないを選択させてくれるのだと思っていました。なので、『嫌なら先生に言えばいいよ。』と伝えていました。ある日、『僕、約束破っちゃった。』と泣きました。通常級で過ごす授業に行きたくないと言った息子に、先生が、『お母さんと約束したんでしょ!』と、言ったそうです。それから丸をつける授業が減っていきました。
    あと、息子には偏食があります。幼稚園では給食を食べきっていました。その為、みんなと食べると食べられるのかな?と思っていたのですが、牛乳が嫌から始まり(家では飲む)、最終的に『給食をやめてお弁当にして欲しい!』と言い始めました。

    そんな中、そろそろ本格的に求職活動をしないといけなくなり、面接が決まりその当日に体調を崩す息子。
    働きたい母は、体調を崩す息子に当たってしまいました。

    休み明け、通常級と給食の話を支援級の先生に質問したところ、機嫌が悪い日だったのか、『通常級については、一度決めた事なのでケジメをつけてください!給食は、アレルギーの子たちはお弁当の子もいるのでできなくはないですが、給食の量を上級生と同じによそっていたので、減らしますよ!だから、食べてください!』と、イライラした口調で言われました。いつもは、息子に『帰るよ!』と別れの挨拶をして(なかなか離れられない日もありましたが)帰るのですが、先生のイライラの圧もあり、そっと帰ってしまいました。すると、息子は泣きながら追いかけてきました。そして先生が『勝手に外に出てはダメでしょ!!』と、怒りながら来ました。母は思わず、『優しく伝えてください!』と伝えました。『外に出ちゃいけないってわかってるよね?』と息子に母が伝えると、『わかってないから外に出るんです!』と、言われました。その後、教室に戻り母も帰ろうとしたところ、先生に呼び止められ、『息子さんを王様にしていないですか?』と言われてしまい、とても嫌な気持ちになりました。
    その次の日から、息子は学校に行かなくなりました。それが6月半ばで、月1行くか行かないかで現在も不登校です。
    放デイにも行き渋りがあり、結局辞めることに決めました。
    好きなイベントがある日だけで、勉強する時間などは避けていました。
    学校でも勉強。放デイでも宿題。家でも宿題の残りや丸つけをしていたので、勉強に対する拒絶感が増していき、学校や放デイでの不安も上手く表せず、家族も新しい環境になりプレッシャーを感じ、母にもその不安をキャッチしてもらえず、一人で頑張り過ぎてしまったのだと思います。
  • クラスの人数の多さに圧倒された。集団行動、時間割(次々と変わる変化についていけない)、椅子を引く音、給食が苦手。保健室で休んでから教室へ→教室に入れなくなる。玄関からでなくなり、やがては、布団からでなくなった。
  • 兄 学校で友達とトラブル。相手のルール違反が許せない。足の怪我が酷い時期と重なり、無理が重なった。
    弟 給食が苦手。授業がつまらない。友達ができにくい。全体指示が通りにくく、何をしたらいいのか分からず、行く意味も見いだせなかった。
  • 1年生の1年間は毎日付き添い登校し、行き渋りながらも何とか一般級でやっていました。でも、年度末からのコロナ休校で張り詰めていた糸が切れたのか、休校明けからは親がテレワークの日は欠席、出社の日は保健室登校となりました。
    自分だけいつも遅れてしまうことを当時は最も気にしていましたが、数年後に「いやだったこと」を教えてくれました。
    ・無理矢理やらされる。
    ・課題が終わるまで帰れないよ、と言われる。
    ・まだ理解できないうちに黒板を消されてどんどん先に進んでしまう。
    ・キツイ言い方をされる。
    これらは数年経った今でも許せない記憶として心に残ってしまっているようです。
    その後、支援級に転籍し、少人数で彼のペースを尊重してもらえる環境になってからは毎日登校するようになりました。

SNSでアンケートにお応え頂いた保護者の方からの回答

  • 理由は不明。
  • 五年生3学期から行き渋り、から今は通えてません。理由は聞いてもわかんないと言います。お友達と揉めることやうまく付き合えないことも多々感じてるようです。本当はお友達と遊ぶのも大好きなのに
  • なんとなく不安
  • 感覚の過敏、不安が強い、自分の気持ちを言語化するのが難しいなどがあり遅刻や休みなどで都度対応していたが学年が上がり学校生活についていくのが難しくなったあたりで行き渋り不登校が出てきた
  • 小学校は一年生から6年間不登校でした。3、4年は自分のペースで行きましたが、5、6年は別室登校でした。中学校は自分で行きたいと言った私立中学へ進学しましたが、三学期になり突然行かなくなり不登校となりました。
  • 理由:塾でのいじめ、学級崩壊ぎみ(暴言暴力) 、親の無理解、過程:小4〜不登校で中学は完全不登校
  • 学校の給食を教室で食べるのが嫌で、行き渋りが増えた
  • 先生の軍隊のような教育。忘れ物をしたら怒鳴られる、休もうとしたら、他の人に迷惑がかかるとか言われて心が折れたのと、友達が怒鳴られるのを見てキツかったようです。
  • 小1の夏休み明けから休みがちになり、3学期から完全不登校になりました。行きたくない理由は上手く言語化できず、腹痛、頻尿など身体症状が現れ、癇癪をおこすようになり、先生が言っていることが分からない、自分だけうまくやれない、などと言っていました。その後、市の発達相談へ行き、児童精神科受診に繋がることができ、ASDの診断がでました。
  • 小学校5,6年から度々行き渋り、中1の夏休み明けからほとんど登校しなくなりました。
    理由ははっきりしたことはわかりませんが、苦手な勉強と対人関係に疲れたのでは?と思っています。
  • 引っ越しに伴う転校の多さ 馴染みのない学校での嫌がらせ
  • 今はまだ登校しぶりの段階です。毎朝一緒に昇降口まで母子登校しています。渋る理由は「家が好き」「勉強がキライ」と本人は言います。
  • 転校後、近所の高学年に仲間はずれにされたり、コロナ下の転校で不安がつのり、友達も積極的でなく、なかなか親友が出来なかった。 お母さんといたいという気持ちが高まり週2日か3日の登校を2年くらい続けました。
  • 学校が嫌いで勉強も嫌いで、休み時間もひとりでと言い始めて休みがちになってきている
  • はっきりとした理由は不明です。
    コロナで集団登校がなくなってから、本人の希望で校門まで付き添い登校をしていました。行きしぶりが始まり、昇降口までの付き添いに代わりました。表面上の理由(給食が嫌だ)の対応(午前だけ登校、弁当持参など)をするも行きしぶり改善されませんでした。クラスがうるさい、という訴えもありました(たしかにいい意味でも悪い意味でも賑やかなクラスです)。
    夜に登校の準備をするも、朝、行きたくないと言うことが多くなり、騙し騙し登校させていましたが、泣いて嫌がるようになったのでしばらく休ませることにしました。
  • 今は毎日行っていますが教室へはほぼ行けていません。病院の先生の指示で午前で帰宅しています。原因としては吐き気の症状です。基本的に自宅以外での食事が苦手なため給食も食べれません。本人は何が原因で吐き気があるか分かっていません。春から中学なので最近症状が酷くなっています。
  • 他害を頻回にうけた事と担任の先生の妊娠中トラブルで長期休みに伴う環境の変化や産休後の先生の補充なしに伴うクラス変更などによりささいなことでも不安が増強した為です。
  • コロナ休校明けの小学校5年のとき、クラス替えのメンバーと担任と合わず、行き渋るようになりました。6年生で担任が持ち上がり、頭痛、嘔吐、発熱がひどくなって不登校に。中学は行くよ、と言っていましたが、身体症状が強く、5月でリタイアしました。
  • 発達特性段々と強くなってきた事で、集団での活動が難しかったことと、母である私がちゃんとできてほしいと望むあまり少し厳しかったことや、仕事をしていたので学校帰りには放課後等デイサービスに毎日いく生活でもあり、かなりエネルギー不足になったのだと思います。
  • いじめ、対人関係のトラブル
  • 感覚過敏でマスクがつけられないところから始まり、現在は同じ学校の人に会うことがストレスになっているから
  • 4年生の3学期に体調を崩しがちになり、登校したり休んだりでした。
    5年生は頑張るぞ!という春休みに体調を崩し、
    5年生への進級の日に入院になり、小児病棟がなく、大人の大部屋にひとりで寝かされ、看護師さんに不安を訴えるも「5年生でしょ!泣かないの」とあしらわれ、トラウマになってしまい不安感を強め、
    1ヶ月遅れで登校が始められてもクラスに馴染めなく登校不安を示し始めました。
    5年生は一学期を何とか乗り切りましたが、夏休み以降コロナも重なりオンライン授業が続き、登校ができないようになってしまいました。
    週に2日くらい、行ければ2時間くらい…登校できる日があったりします。
    そして6年生が終わろうとしています。
  • 低学年の頃、音楽の授業で、一生懸命やったのに、うまく出来なかったという理由で自分だけシールを貰えないという事があって、そこから明らかに先生という存在に不信感を露わにするようになりました。したくないことを強要されて管理されている、と感じているので、刑務所のようだと言って行きたくないと言うようになりました。
  • 進学校で先生からの教育体罰、暴言、宿題の答えが合っていても問題の解き方が間違えていると廊下に出される。解けるまで教室に帰れない。
  • 違う学校に転校後も、学校が怖い。クラスに入れない。不安、心配。現在は、週1.2回 午後から別室登校。
  • 小学校に入って全力で楽しんでいたけど、精神年齢が高く生真面目でなんでもこなせるタイプだったため、先生や親から期待され続けて疲弊していった。
    五月雨登校ののちに、1年生の2月に「学校やめたいぐらい嫌い!」と泣いて叫んで行かなくなった。
    不登校について学びはじめるうちにHSCの気質があるんだと気づいた。
    もともと共感力が高く、よく気づき、常に周りを意識してアンテナをはっていた。
    小学校でも家でもしんどかったと思う。
  • コロナでリモート授業と時差登校の併用になった事がきっかけで、登校しぶりが強くなり回数も増えた。
  • リモート授業の日、時差登校の日で生活リズムが狂い始めました。特に時差登校は、決められた登校時間内に気持ちを学校に向ける事が出来ず「行かなきゃ。でも行きたくない。」と葛藤している間に登校時間が過ぎてしまう事が多かったです。
  • 入学式と、初登校日と、その週の金曜だけ登校して、あとは「パワーがないから行かない」と不登校に。なぜか運動会は自分の出番から、普通に参加!
    担任や養護の先生も、不思議そうに「なぜでしょうね」と言っていました。
    学校がきらいというより、家が好きすぎて、
    プライベートでも、同じ時期からほぼ引きこもりになりました。毎日明るく元気に家で遊んでいます。理由は、今も明確には分かりませんが、集団行動や、ルールの中での生活が苦手だったり、文字を描くのが苦手なところはあります。登校刺激はせず、見守っています。
  • 夏より摂食障害になり、そのまま不登校になりました。
  • 集団で何かをするのが苦手(集団登校、学年発表会、運動会、遠足、体育のチーム競技等)
    授業が疲れる
    みんなで同じことをするのが好きじゃない
  • 字が上手く書けないことをからかわれた
  • 思い通りにならないこと(周りの人にとってはとても些細なこと)がきっかけで、全てが嫌になり、癇癪、そのまま行きたくないになることがある。
  • 小学3年生にあがり、学習もむずかしくなってきて、担任の先生もかわり、本人の様子が分からず、できるものとして、学習をすすめ、そのペースに負担を強く感じたようです。宿題にも同様。

    先生の言っていることがわからない、会話において、先生側と自分の解釈のズレとかもあった。

    また、以前より、普通級の子にいじめや、からかいを受けていた。普通クラス全体も、支援級のこどもに対する認識のありかたが、温かみがない感じでした。

    低学年のうちは、周りもクラスの一員との意識があってまだ遊んだりでき、交えていたのだが、年齢が上がるに連れ、難しくなってきた。

みなさま、アンケートへのご回答ありがとうございました。


次へ:お子さんの困りごとを解決するための情報をどのように取得しましたか?:不登校でも居場所はあるよ – アンケート集

発達障害や不登校の子の「友だちができる。安心できる居場所」とは?

Branchでも1つの解決策として、不登校・発達障害があるお子さま向けの「学校外で友だちができる」オンラインフリースクールを運営していて、以下のような特徴があります。

  1. 「発達障害」や「不登校」で悩まれている保護者の方達がなんでも自由に悩みや困りごとを相談できる安心できるコミュニティや、家族以外の人との関わりが減ってしまった不登校のお子さま達が自分の「好きなこと」をきっかけに安心できる居場所や、友だちができるようなサービス。
  2. NHKや日テレなど多くのメディアにも紹介され、本田秀夫先生との対談や、厚生労働省のイベントの登壇実績もあり、サービス継続率は約95%以上。
  3. 小学校低学年のお子さまはもちろん、どんな子でも楽しく参加できるようにスタッフがお子さま一人ひとりに寄り添ったサポートを徹底。

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Branchオンラインフリースクールは1ヶ月無料体験ができるので、ご利用を迷われている方は一度お気軽に無料面談予約をお申し込みください。

「学校外で友だちができる」Branchオンラインフリースクール

その他のインタビューはこちら。
【学年別】不登校のきっかけと対応、利用した支援やその後の変化 – 当事者・保護者インタビュー記事まとめ

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不登校・発達障害がある子向け

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ライター/著者プロフイール

中里 祐次のアバター 中里 祐次 代表取締役

Branch代表。早稲田大学卒業後、㈱サイバーエージェント入社。子会社の役員など約7年勤めた後にサイバーエージェントから投資を受ける形で独立。自分の子どもがレゴが好きで、東大レゴ部の方に会いに行った時に目をキラキラさせていたのを見てこのサービスを思いつきました。好きなことは、漫画やアニメを見ること、音楽を聞くこと、サウナ、トレイルランニング、かなり多趣味です。Branchの子どもたちに鍛えられて子どもが好きな遊びはたいていできるようになりました。

会社概要

Company

社名

株式会社WOODY


代表取締役

中里祐次


設立

2013年11月11日


所在地

〒150-0034 東京都渋谷区代官山町9-10 Sodacco 2T02


株主

㈱サイバーエージェント、㈱ウィザス、ANRI、レジェンドパートナーズ、笠原健治氏、乙武洋匡氏、佐藤裕介氏、古川健介氏、中里、その他エンジェル投資家


会社概要

Company

社名

株式会社WOODY


代表取締役

中里祐次


設立

2013年11月11日


所在地

〒150-0034 東京都渋谷区代官山町9-10 Sodacco 2T02


株主

㈱サイバーエージェント、㈱ウィザス、ANRI、レジェンドパートナーズ、笠原健治氏、乙武洋匡氏、佐藤裕介氏、古川健介氏、中里、その他エンジェル投資家


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